こんにちは、廣瀬です。
最近2つの講演を聞く機会を得ました。
1つは、青山学院大学教授 苅宿俊文先生の講演。演題は、「PISA型コミュニケーションデザイン教育を核とした総合学習教育について」。
もう1つは、英文学者・お茶の水女子大学名誉教授 外山滋比古先生の講演。演題は、「本とこども」。
まずは、苅宿先生の話をまとめてみます。
“少子化が進む日本は近い将来、外国人労働者を受け入れなければ国/社会が成り立たなくなる。つまり、等質な社会でなくなる。そのため、自分の言い分をはっきり伝え、相手の言い分をしっかり聞くタフな人間関係が求められる。他者/異文化理解や合意/コミュニティ形成(=仲間づくり)が重要に。これまで学習観は、行動主義学習感(「できる」)から認知主義学習観(「わかる」)へ、そして、社会構成主義学習観(「分かち合う」)へと遷り変わり、最近はその3つともが社会に要求されている。その要求に応えるには、他者を意識し、自分自身が学習に参加していると言う意識が生まれ、振り返り意味づける場面があり、集団で協同/協働して、正解の無い問いに取り組むことが必要だ。”
次に、外山先生の話をまとめてみます。
“昨今の日本では、少子化によって天才的な能力が潰されやすくなっている。(経済的な問題は二の次だ。)そもそも「子供(こども)」とは、「子」の複数形だからだ。複数で初めて「子供」は存在する。今重要な問題は、その孤立した「子」をどうしたら「子供(こども)」にすることができるかだ。また、こどもには、噛んでも噛み切れないほどの難しい課題を与えないといけない。成長段階に応じてというのは易し過ぎ、刺激にならない。理解が困難だから価値がある。未知のものに触れた時に、我がものにしようとするエネルギーが生じる。「読書百篇意自ずから通ず」は今でも十分通用する。”
以上、かなり大胆に端折らせてもらいましたが、それぞれ要点をまとめるとこのようなお話になろうかと思います。ここで、興味深いのは、両者に共通する点です。
まずは、社会がこれまでとは大きく変わってきているという認識に立った話であるという点。特に少子化の影響についての問題意識をもった上での話でした。そして、その上での話として、個/孤ではなく、集団/複数の中でこそ、学習が成立する/能力が伸びるのだということを両者とも強調されていました。
全く異なる分野/テーマと言える講演なので、もちろん言葉遣いや表現の仕方は違っていますが、このように両者の言わんとしているところの「キモ」に共通する点があった訳です。
21世紀も間もなく10年が経とうとしています。お二人の先生方も述べられているように、時代は明らかに変わりました。そして、世界は変わりました。特に日本は、これからまたさらに大きな変革の時代を迎えそうです。
20日発売の「世界でもっとも重要な政治経済紙の一つ」と見なされているイギリスの雑誌(週刊新聞)“エコノミスト”は、「未知の領域に踏み込む日本」と題した日本特集を掲載しています。
少子高齢化が、日本経済の再活性化やデフレ脱却の大きな障害になっており、日本はこの問題に最優先で取り組む必要があると警告しています。
同誌の本格的な日本特集は、「日はまた昇る」と日本経済の再生に明るい見通しを示した2005年以来で、今回は対照的に、若者が新卒で就職できないと一生厳しい状況が続く「一発勝負」の雇用の現状や、企業に残る階層構造など解決すべき課題は山積していると指摘しています。その上、日本の「穏やかな衰退」を食い止めるには生産性の向上や女性の活用など「文化的な革命が必要」と結論付けています。
狂熱が去って、このような混沌と混乱に満ちた「未知の領域」に足を踏み入れつつある中で、学校だけが変わらずに、以前のままでいいのでしょうか。いつまでも高度成長期の成功に浸ったままの20世紀型の学習/授業をおこなっていていいとは到底考えられません。これからの時代に相応しい21世紀型の学習/授業というべきものがあるはずです。
20世紀型の授業のありがちな例としては・・・
教員は自ら予習してきたことをずっとしゃべり続け、そしてそのまとめを黒板に書く。時々「ここ試験に出るからな。」と言いながら。生徒は必死になって教員が予習してきたことをノートに写してそれを覚える。中には全く蚊帳の外になり、心その場に無く居眠りをしてしまう生徒がいてもそのまま継続される授業・・・
「コロンブスがアメリカ大陸に到達したのは?」「1492年!」、「枕草子の作者は?」「清少納言!」、「to不定詞の用法は?」「名詞的用法、形容詞的用法、副詞的用法!」と、まるでクイズのようにすべて正解のある問いばかりの授業・・・
多様性のある教室で、どのレベルに焦点を合わせて授業を行なうかは昔からの大きなテーマ。上位の生徒に合わせればそうではない生徒が分からないままになる。皆が分かるレベルにすれば、上位の生徒が退屈になる。中間あたりに合わせれば結局上にも下にも合わないことになってしまう授業・・・
残念ながら、これでは「未知の領域」に足を踏み入れることができるようになるとは思えません。
そこで、私たち宝仙学園中学高等学校女子部が出した答えが、「学びの授業」なのです。21世紀の日本、そして世界が変わりつつある現在の「正解の無い」状況を乗り越えて、必ずや明るいものにしなければならない「未知の領域」に踏み込んでいくために、この「学びの授業」推進しています。
この「学びの授業」は、東京大学大学院教育学研究科の佐藤学教授が提唱されている「学びの共同体」に基づいて考えられているものです。
その佐藤学先生が、インタビューで次のように答えていますので、まとめとして引用したいと思います。
Q:協同学習のメリットとは何でしょうか?
A:学びっていうのは基本的に「協同」だと思っています。心理学では、従来学びは個人が単位で、行動の変容や認知構造の変容を学習と考えていました。だけど、僕の考えの基盤には,デューイ、それにビゴツキーの発達心理学の2つがあり、この考えによれば、学びっていうのはコミュニケーションなのです。
このコミュニケーションに関して、学びの三位一体論っていうのがあるのですが、それは対象との対話、他者との対話、自分自身との対話、こういった対話のプロセスを通じて学習は成り立っていくと考えられているんです。
つまり、協同学習だけが単独ではあるのではなく、協同学習のプロセスの中で他者との対話、対象との対話、自分自身との対話につなげいくんです。
それに対して、今の教室っていうのは非常に個人主義的で、一人ひとりの机もバラバラであって、これをどう協同に変えていくか考えていく必要があります。
では、なぜ協同が必要か、その理由は2つ考えられます。1つは、先ほど述べたように根底で学びは協同なんですね。2つめは、「協同なしではひとりひとりの生徒の学習を保障できない」ことですね。
ここで言う小グループの学びでは、自分ひとりでは到達できないところへ届く「背伸びとジャンプ」と呼ばれる原理があります。これは、ブルーナーがscalfolding(足場かけ)と呼んだ原理と同じです。
つまり、協同学習では小グループにおける活動と対話を媒介にして、背伸びとジャンプが起こり、ひとりひとりの学び保障へとつながっていきます。こうした原理をもとに、協同学習は導入した際の高い効果が期待されます。
なぜかというと,通常の教室では、3段階位のレベルの生徒がいて、教材のレベルっていうのは、上位レベルの少し下くらいに設定されています。このため、通常の授業ではほとんどの生徒で背伸びとジャンプの機会がないのです。(背伸びとジャンプが起こるのは、テキストレベルのちょい下レベルのほんのわずかだけです)
こうした現状の状況を変えるには2つの条件が考えられます。1つは、課題を高いレベルに置く事。2つ目は、下の人たちの問いを拾い上げる事です
このギャップを埋めていくことが授業だと思います。そのためには子供たちに一旦問いを返し、小グループでそれぞれにジャンプしていく機会を与える事が重要だと考えます。
Q:今の日本教育においての協同学習の意義とは?
A:今の日本の教育では、学習がますます競争社会化しています。同一性の中に近づけていくと効率があがるという考えに支配されており、競争がインセンティブとなっています。
しかし、ジョンソン&ジョンソンがメタ分析を行った研究のように、やはり競争よりも協同の方が重要なんですね。例えば、競争が生み出す弊害として、テスト主義に適応できない2通りの子が出てきます。
1つは、学習レベルについていけない子ですね。2つ目は、テストの点より数学的思考を楽しむ子どもで、こうした子ども達はテスト主義の中で数学嫌いになってしまいます。
こうした弊害に対しても、協同学習へと持ち込む事が、やはり一番有効だと思っています。
(以上、引用終わり)
最後に、恒例の一言で締めたいと思います。
「やっぱり“学びの授業”!」
P.S. よろしければ、これまでの「やっぱり“学びの授業”!」シリーズ他もご覧ください。
・やっぱり“学びの授業”!(7)
・やっぱり“学びの授業”!(6)
・やっぱり“学びの授業”!(5)
・やっぱり“学びの授業”!(4)
・やっぱり“学びの授業”!(3)
・やっぱり“学びの授業”!(2)
・やっぱり“学びの授業”!(1)
・やっぱり女子校!
・社会科教員、研究材料になる!?
・やっぱり“Learning Arts”!
・「学びの授業」公開授業研究会のご報告
・本校ホームページ →学びの授業
・「学びの授業」を始めるにあたって(草川剛人副校長)